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第一章・千年の莫高窟

2026-05-14

——砂漠に咲いた祈りの美

2026/05/19

 その光景を目にした瞬間、胸の奥がふるえた。
 岩山に穿たれた数百の石窟。中を覗けば、千年の時を越えてなお鮮やかな色彩がこちらを見返してくる。
 ――これこそが、日本の仏画の源流となった世界。「ここから日本の仏画の歴史が始まったのか」と思うと、言葉を失った。

《莫高窟全景 砂岩の断崖に無数の窟が並ぶ》

砂漠に浮かぶ美の大伽藍

 中国、敦煌・莫高窟。甘粛省の西端、砂漠のオアシスに位置する。4世紀に始まり、唐の時代に最盛期を迎え、計735もの石窟に4万5000平方メートルの壁画、2千体を超える仏像が残る。東西の文化が交わり、祈りと美が凝縮された奇跡の空間だ。壁画の青や赤、金箔の光沢が砂漠の乾いた空気の中で息づいている。

 2025年夏、私は50歳の誕生日を挟み、妻と娘と一緒に、念願だった敦煌に旅行した。旅の前、私はYouTubeで何本も動画を見た。特に平山郁夫が描いた「シルクロード」シリーズや、井上靖の小説『敦煌』の舞台を紹介する映像などに心踊らせた。画面越しに見る莫高窟ももちろん壮麗だったが、実際に目の前に立つと、そのスケールと静寂に圧倒された。美術史を専攻する大学4年生の娘が思わずつぶやく。「こんなに古い壁画が、こんなにきれいに残っているなんて奇跡だね」。

壁画と仏像、その息づく技巧

 ガイドをしてくれたのは北京出身のKさん。礼儀正しく美しい日本語が耳にとても心地よい。Kさんに導かれて石窟に入ると、壁面いっぱいに描かれた飛天たちが、まるで今も天上を舞っているかのようだ。唐の時代、絹の交易で栄えた頃の作品だという。薄明かりの中で見上げると、細やかな筆致の衣のひだ、頬の柔らかいグラデーション、そして五弦琵琶を抱えた天人の姿。
 私は思わず「これは正倉院の宝物に伝わる琵琶と同じだ」と呟いた。娘が振り返り、「ほんと!絵の中の楽器、まるで日本の古い楽器みたい」と驚いている。千年の昔、この楽器とともに音楽や祈り、そして美意識が日本にも伝わったのだ。

 もう一つ印象に残ったのは、第96窟の大仏。唐代に造られた高さ35メートルの坐像。その表情は厳かでありながら、どこか人間的な温かさがある。隣に立つ妻(47)が小声で言った。「ねえ、この顔、なんだか安心するね」。砂漠の静寂の中にあって、この大仏の穏やかなまなざしが訪れる者を包み込む。1000年以上もの間、戦乱も風砂もこの微笑を消せなかったのだと思うと、胸に染み入るものがあった。

(※莫高窟内部は撮影禁止のため、掲載写真は資料画像を使用しています。)

東西文明が交差する場所

 Kさんが指差す先には、異国風の顔立ちの僧侶、ペルシャ風の衣装をまとった商人、ラクダの隊商を描いた壁画が広がっていた。石窟内部は写真撮影不可のため、様子が紹介できないことが悔しい。唐の時代、ここは正真正銘「文明の十字路」だった。インド発の仏教、中国で鍛えられた思想、ギリシアの写実技法、ペルシャの装飾文様――それらが一つの石窟に共存している。敦煌の砂漠は、ただの辺境ではなかった。世界の文化が出会い、溶け合った場所だったのだ。

 私は法隆寺金堂の焼損した壁画を思い出していた。もしあの色彩が今も残っていたら、きっとここ敦煌と通じる景色が見えただろう。日本の美術がたどってきた源流を、この地で確かに感じる。井上靖や平山郁夫が生涯をかけて敦煌を書いた(描いた)理由が、今ようやくわかった気がした。

旅の中の出会い

 莫高窟の観覧はツアー形式で、約2時間半。ガイドさんが当日の混在状況を考慮して選んだ5つ程度の石窟を順に見て回る。世界的な観光地だけあって人が多いが、Kさんの説明に耳を傾けると、喧騒も忘れて砂漠の奥に眠る祈りの声が聞こえるようだった。石窟内は撮影禁止だが、目の前に現れた光景は私の心に焼き付いて離れない。数百年前の戦乱の時代や近世の混乱の時代を乗り越え、文字どおり人類の宝を守り抜いてきた人たちに心から感謝した。

 出口に向かうと、真夏なのに少し冷たい風が砂を巻き上げて頬をかすめた。案内をしてくれたKさんが、笑顔で別れの挨拶をしてくれる。「謝謝、再見!」。妻も娘も手を振り返した。私も拙い中国語で「謝謝、再見!」と答えたが、久しぶりに話した中国語の響きが妙に懐かしかった。「昔かじった中国語をもう一度勉強し直そう」と思った瞬間だった。

砂漠の風に思う

 夕暮れが近づくと、岩山の影が長く伸びる。この光景を、井上靖も平山郁夫も見たのだろうか。人はなぜ、この砂漠の果てで美を求め続けたのか。答えはわからない。けれど確かなのは、莫高窟が今も生きているということだ。千年の祈りが、今も静かに脈打っている。

 娘が言った。「パパ、敦煌って“砂漠の中の宝石”だね」。妻がうなずく。「来る前は少し怖かったけど、中国って想像していたよりずっと優しくて、温かい国ね」。その言葉を聞いて、私は少し誇らしい気分になった。家族の中に新しい“世界への窓”が開いた気がした。

《次回予告》

 敦煌の魅力は、日が暮れてからも続く。夜のオアシス都市に灯る屋台の明かり、串焼きの羊肉の香り、そして圧巻の舞台「楽動敦煌」。次回は、夜の敦煌を歩く。沙洲夜市と楽動敦煌──夜の砂漠に響く音と香り。どうぞお楽しみに。

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